母の余命宣告。「小さな変化」と「大きな気づき」

こんにちは。

子供たちの夏休みが始まるとなんだかこっちまで夏休み気分になっちゃって「なんで夏休みに働かなきゃいけないんだよ」と、理不尽な不満を抱えているnewginです。

我が家の夏休みの恒例といえば、お盆の里帰り。

今年も家族みんな広島の実家に遊びにいきます。

悠々自適でマイペースな父親も、孫だけは可愛いらしく、いつもこの時期を楽しみにしていますね。

母のこと

ちなみに母は4年前、肺がんで亡くなりました。

当時64歳。まだ生きていたとしても68歳。う〜ん、やっぱり早すぎましたね、亡くなるの。

成長する息子の姿をもう少し見せてあげたかったという気持ちもありますが、それよりもっと、「息子の成長のためにも母親に生きていて欲しかった」という思いの方が強いかもしれません。

母の伝説

すごく身内びいきのようで恥ずかしいのですが、母はまぎれもなくスーパーウーマンでした。

・高校生の時。体育祭の部活対抗リレー(母はテニス部の補欠)にて、陸上部の絶対的エースをぶっちぎる。

・陸上部の顧問から再三の誘い(自宅にまでやってきて母の両親に両手をついて頼み込みにきたらしい)を受け、陸上部に加入。

・加入後すぐに県大会に中距離の選手として出場するが、あまり裕福ではない「大家族の末っ子」という境遇から、試合用の靴を購入してもらえず、テニス部時代のスニーカーのまま試合に出場し優勝。そのままインターハイ出場。

・顧問の先生から陸上での大学進学を強く進められるも、家庭の事情(学費が工面できない)で就職。

・以降20代半ばで結婚。そして2児の出産、育児。スポーツはママさんバレーに参加する程度の一般的なママの皮を被って過ごす。

・長男(ワタシです)が反抗期に突入。新聞か雑誌で「一緒にスポーツをすると子供とコミュニケーションが取れる」という記事を読んだらしく17〜18年ぶりにジョギングを始める。(1kmを歩くくらいのスピードで走る本当にゆるいもの)

息子の反抗期の件はどうでもよくなったらしく、スポーツとしてのランニングに目覚め、1年後にはフルマラソンに参加し始める。

40歳前でサブスリー(フルマラソンを3時間以内で完走)達成。40歳を過ぎても記録が向上し続ける。

・地方のマラソン大会に出場すればかなりの確率で優勝。翌年の招待選手に選ばれるようになる。また普通に大阪国際女子マラソンや東京国際女子マラソンなどのビッグレースにも参加し始める。

・45歳くらいの時、実業団に所属する選手も含めて広島県のランナーの中で最も優れた記録を持つランナーになる。

・スポーツに関心のある広島市西区の区長から要請され、1日区長を体験。

・運動への飽くなき欲求は尽きず国内有数の過酷なレース「富士登山競走(富士山の麓から山頂までを駆け上がるレース。自衛隊員などがトップクラスのランナー)」「サロマ湖100kmウルトラマラソン」などにも参加を始める。

・トレーニングの一環で続けていたスイミングにも興味がうつり、スイム&ラン(トライアスロンから自転車を抜いた競技)にも参加し始める。

・トライアスロンも視野に入れ自転車の購入も検討するが「やっぱり自転車はもっと走れなくなったら始める」と謎の理由を口にし断念。

・50代半ばから徐々に一線からは距離をおき始めるが地方のマラソン大会では年代別の部では普通に優勝争いに加わり続ける。

・50代終盤、体調の不調を感じ(本人は風邪か何かと判断)トレーニングをセーブ。1年近く不調が続き精密検査を受けた結果、末期の肺がん(ステージ4)であることが発覚。

母の逸話

書き下ろしてみると本当にすごい人でした。
他にも色々エピソードはつきません。

・感情の起伏が激しい母。newginが中学生の時、母と大げんかした際「そんなこと言うなら死んでやる!」と外に飛び出していった母を走って追いかけていったことがあるんですが、なんせ当時はもう一流のアスリート。全然追いつけずに3km以上死ぬ気で追いかけたと言う逸話。

・常に動きっぱなしの母。毎日21時くらいになると「さあ休憩しよ」と言いながらテレビの前に座るんですが、テレビを見ている間じゅう鉄アレイを使ったトレーニングやハードなストレッチをし続けていたという逸話。

・手紙や物書きが好きだった母。新聞の投稿欄で入賞することもままあり、その時手に入れた商品券で外食に行っていたと言う話を帰省のたびに聞かされるという逸話。

どの話も家族で集まった時には「いい酒の肴」になる思い出深いエピソードです。

ガンの発覚後

体力的なパワーも常にチャレンジを忘れない精神どちらをとっても健康そのものだった母ですが、ガン発覚時点で既に手術は不可能なほど広がっており「余命半年」と宣告されました。

冗談でなく家族、親族、友人、知人など、母を取り巻く多くの人が「90歳まで・・いや100歳まで生きるに違いない」と信じていた母への早すぎる死の宣告。

当時のnewginはなかなかレベルの高いブラック企業に勤めていたこともあって「今月は今日で休日出勤8日目」「おっ!今月は残業時間100時間行ったな〜(休日出勤別で)」と言うのが当たり前の生活をしていたのですが、憔悴しきった母から「余命宣告」を聞いた瞬間にスイッチが切り替わったような気がします。

その時から、休日出勤をセーブし少なくとも月に1〜2回は母に会いに実家に帰るようになりました。

・有給休暇を取得し「母親が元気なうちに」両親との旅行(息子ーおばあちゃんにとっての孫も一緒に)を決行しました。

・余命宣告以降も1日2時間程度のウォーキングを続けていた母と一緒に散歩に出たり山歩きを一緒にしました。

・当時肺がんの特効薬として知られはじめていた「イレッサ」による治療が効果を見せ余命が伸びる可能性がわかると、さらに母との時間を作るためにブラックの会社から転職しました。

こうやって言葉にしてみると「全然大したことしてないな〜」って思うんですがnewginと母の関係ではこのくらいがちょうどよかったんです。

「なんでも自分がやりたいタイプ」で「人に気を使われると自分から距離をとるタイプ」の母にこれ以上のことをするのは逆効果ってことは息子の自分が一番よくわかってましたから。

月に1〜2回実家に帰ったときも、基本やっているのは母の手料理を「相変わらずこれ美味しいなぁ〜」って食べるだけ。

話すことは昔の思い出話や息子(母にとっての孫)のエピソード話。

そんなことしかしていない時間だったのに、newginにとっては100歳まで生きる予定だった母親と過ごすことができたはずの時間を前倒しで使って行くためのとても貴重な時間だったんです。

今思うとガン宣告から母の死までのこの期間は、神様がくれた準備期間のように感じています。

母の死

イレッサの効果もあり余命半年と言われていた母はそれから3年半、人並み異常に元気に生活を送ることができました。

まあ、この部分に関しては、もともと母が持っている体力・精神力的なポテンシャルの高さも影響していたんでしょうね。

母が元気なことに慣れてしまって「まだしばらく大丈夫かな」と感じていたある日、父から電話で「容体が悪化したので入院することになった。今度が最後になるかもしれないから覚悟してほしい」と連絡が入り、そこから母の死までは1週間もなかったと思います。

母の死に直面した際、父は見た目は冷静でしたが手にものがついていないというか内心動揺しているようでした。

newginはただただ「あまり苦しまずに逝けてよかった」と繰り返し繰り返し、誰にいうでもなく言っていたようです。

誰よりも長くベッドの横で泣き崩れてた弟には、準備期間が短すぎたのかもしれません。

弟の鳴き声は母を失った悲しさというより後悔の想いのように聞こえて仕方ありませんでした。

東京で暮らしていてなかなか実家に戻ることも難しかった弟には酷かもしれませんが「お前にももっとできたんじゃないか?」という言葉が喉元まで出かかっていたことを覚えています。

最後に

64歳という若さで亡くなった母に対しての「もっと生きていて欲しかった」という思いは変わりませんが、死の宣告から3年以上の猶予をくれた、神様とイレッサには本当に感謝の思いでいっぱいです。

人は誰もが死を迎えます。そしてそれは突然に舞い降りてくることも少なくはありません。

ワタシの場合は「余命の宣告」があったので躊躇なくスタートをきることができましたが、このような機会がなかったら弟のように後悔の念を残したまま母の死を迎えていたことはまず間違い無いでしょう。

母の死に関わる3年間を経て人と人との時間を絶対に無駄にしないという意識が強くなったことはワタシの人生に大きな変化をもたらしました。

”気づく”か”気づかないか”とでは3年という時間ではあまりにも大きな差が出るものです。そして今回のように分かりやすく気づかせてくれることはあまりないのかもしれません。

このブログを見てくれている人がそのことに気づいて自分の大切な人との貴重な時間をもっと大切にしてくれることを心より願っています。

・・・・なんて言ってるnewginですが父親との時間はまだまだ大事にできてはいません(深く反省)

その代わりに、と言ってはなんですが、母親の件で”気づいた”弟がせっせと父親との時間を大切にしているのが見えていて、ちょっと嬉しく思っています。

それでは今回はこのあたりで。

これからは父親との時間も大切にしていこう!と心を改めたnewginでした。

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